「道徳」「品」「人格」

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約80年前にナチス、ドイツによって行われたホロコースト「大虐殺」約400万~1200万人。

多すぎて正確な人数が分かりません。毎日2000人焼き殺されたとか…。

その最悪の状況を経験し、毎日「死」と隣合わせの状況から、奇跡的に生き延びた心理学者の言葉。(私たちが生きることから何を期待するのかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ)ヴィクトール・E・フランクル

深い言葉です。

簡単に説明すると、(あ~生きてる。何か良いことないかな~、とりあえずテレビ見よ~)ではなく、(あ~生きてる。私の体よ、私をどう動かし、何を見せてくれるのだろう。私は私の成長を楽しみにしているよ!)という意味です。

命を授かり、自分の思い通りに動く「体」がある。

体の基本的な構造は人類にさほど違いはない。

しかし、充実した人生を送り、幸せを実現している人がいること、自分の思い通りに行かず、不幸の渦に巻き込まれている人がいること。

そこの違いは何だろうか。

生まれた環境のせいにする人が多いですが、そんな言い訳したところで何も変わりません。

「日本で働ける」という環境にいるだけで、世界から見れば相当有利です。

十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人。

ただの人と、そうでない人の違いは、自分を磨く努力をしているか、していないかです。

唯一思い通りに動かせる「自分」のレベルアップをしていますか?

各々、やりたいこと、叶えたいこと、楽しみたいこと、共感したいこと、100人いれば100人皆、答えは違うでしょう。当然です。それがあなたの個性です

それぞれの個性を磨くために必要な、真理があります。

それは道徳を磨くことです。

世の中には「こうすれば、必ずこうなる」という原因と因果関係がある。

道徳を磨く=成長することができ、信頼を得る。レベルアップだ。

道徳に背く=破滅という名の下り坂を転げ落ちる。

百の法律があろうと、千の規則があろうと「道徳」にはかなわない

正しいことを捻じ曲げる者、信じることを踏みつける者とは、正々堂々、道徳を武器に、何があっても戦わなければならない。

※否定や暴力で戦う、ということではないですよ。※

様々な人間関係を送ると、気付かないうちに「道徳からそれる」恐れがあります。

道徳からそれないようにするには「」を一緒に追及することです。

」を求める「」のりには「」しかありません。

品、道徳の意識を再確認し、習慣にすることで「人格」を鍛え上げましょう。

興味があれば是非、目を通してみてください。

ルーティン  令和3年1月8日

口を開けば人を妬み、恨み、文句や否定をし、誰かの上げ足をとる人を見かけます。

そんな人に限って「やることがないんだよな~」「やりたいことがみつからないな~」などと嘆いて「暇」をもてあましています。

「やることがない」「やりたいことがない」のではなく、それらを見つけ創る意識がそもそもない。

これは、結局のところ与えられることが当たり前になっている状態「己の怠慢の慣れの果て」ともいえる。

人生とは、今この一瞬の発想力、想像力、製造力の積み重ね。

人生の方程式 人生はルーティンの集合体

1年は1日×365回 1日は1時間×24回 1時間は1分×60回 1分は1秒×60回

この瞬間の発想、思考、行動=人生

今この瞬間に、ネガティブな言葉が出る人、ネガティブな発想が浮かぶ人、ネガティブな行動をとる人の人生はこれらのネガティブの積み重ねで形成された人生となる。

故に「できない」と口癖で言う人は、「できない」という思考、そこから出でくる行動の積み重ねにより、その人の人生がどうなるかもまた想像に容易い。

言葉には言霊が宿る

言葉に発すればそのように人生が形成される。

人生の幕を下ろす日は必ず来ます。

終わりがあるということは、使える言葉にも期限がある。

ネガティブ発言をし、人生を消費するのはやめましょう。

心のパワーをプラスに変え、ポジティブに物事をとらえ、幸せのルーティンを作る努力をしましょう。

綺麗な景色、美味しい空気など、ポジティブな言葉を口から出すことの大切さを理解してほしい。

言葉を発せられる元気な体があること、言葉をつかえる貴重な時間があること、言葉を伝える相手がたくさんいること、これらの価値】を実感してほしい。

そして、大切な人に「ありがとう」と笑顔で感謝の言葉を贈ってほしい。

改めて自分の人生の在り方を見直し、限りのある時間を笑顔で楽しく健康に過ごせる習慣を作りましょう。

「道徳」「品」「人格」

物の見方(パラダイム)令和2年7月18日

人は皆それぞれ頭の中にたくさんの地図を持っています。

これらの地図は2つに大別できます。

あるがままの状態(現実)が記された地図。

あるべき状態(自分で作り出す価値観)が記された地図。

 

私たちは、経験することの全てをこれらの地図を通して解釈しています。

地図が正確かどうかを疑うことはめったにありません。

地図を持っていることすら意識していない人が多い。

ただ単純に、物事はこうなのだ!こうあるべきなのだ!と思い込んでいるだけです。

私たちの態度や行動は、こうした思い込みから生まれる。

物事をどう見るかが、私たちの態度と行動を決めている。

 

誰しも、自分は物事をあるがままに、客観的に見ていると思いがちです。

実際はそうではありません。

私たちは、世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに世界を見ているのであり、自分自身が条件づけされた状態で世界を見ています。

 

ここで一つの解りやすい物語を紹介します。

 

地下鉄で起こった小さなパラダイムシフト(見る世界の変化)。

ある日曜日の朝、車内で乗客は皆黙って座っていた。

新聞を読む人、物思いにふける人、目を閉じて休んでいる人。

車内は静かで平和そのものだった。

そこに突然、一人の父親が子供たちを連れて乗り込んできた。

子供たちは大声で騒ぎだし、車内の平穏は一瞬にして破れた。

父親は長椅子に座り、目を閉じていた。

この状況にまったく気づいていないようだ。

子供たちは大声で言い争い、物を投げ、あげくに乗客の新聞まで奪いとるありさまだ。

迷惑この上ない子供たちの振舞に父親は何もしようとしない。

乗客たちは苛立ちを抑えようにも抑えられなかった

子供たちの傍若無人ぶりを放っておき、父親として何の責任も取ろうとしない彼の態度が信じられなかった。

乗客たちのイライラがピークに達したとき、一人の乗客が父親に声をかけた。

「お子さんたちが皆さんの迷惑になっていますよ。少しおとなしくさせていただけませんか?」と忠告した。

父親は目を開け、子供たちの様子に初めて気づいたような表情を浮かべ、そして、言った。

「ああ、そうですね。どうにかしないといけませんね、、、、、病院の帰りなんです。一時間ほど前、あの子たちの母親が亡くなって、、、、、これからどうしたらいいのか、、、、、あの子たちも動揺しているんでしょう、、、、、」

その瞬間の乗客たちの気持ちを想像できるだろうか。乗客たちのパラダイムは一瞬にしてシフトした。

突然、子供たちの様子がまったく違って見えたのだ。

違って見えたから、考えも感情も、行動も変化した

乗客たちの苛立ちは消えてなくなり、態度や行動を無理に抑える必要は無くなった

乗客たちは親子の苦しみに共感し、同情と哀れみの感情がとめどなくあふれ出た。

全てが一瞬で変わったのです。以上。

 

いかがでしたか?

自分の都合で物事を見ている事実を確りと認識しましょう。

自分の身に不都合が起きたとき、感情に任せてイライラしたり怒ったりすることは誰でもできます。そして自分勝手に物事を見ている人はそれが大好きです。

 

「悪の葉っぱに斧を向ける人は1000人いても、根っこに斧を向けるのは1人しかいない」行動や態度という「葉っぱ」だけに斧を振るのをやめ、パラダイムという「根っこ」を何とかしなければ、人生を大きく改善することはできません。

「品、道徳」をパラダイムの根っこにし、物事の本質を見抜く目を持ちましょう。

 

「あの人、素敵だな」と思ったら、その人の素敵な要素を集め、素敵目線で見てしまいます。

人の素敵なところを見つける。それはとっても素敵なパラダイムですね。

「あの人、なぜか嫌い」と思ったら、その人の嫌いな部分を見るようになります。

そこで一度立ち止まり素敵要素を探すようパラダイムシフトしてほしいと思います。

一度しかない短い人生、同じ時代に生まれて出会うことができたのだから、一緒に楽しく過ごす努力をしましょうね。

品、道徳を根本に貴方の地図に真心を添えましょう。

「道徳」「品」「人格」

棒の両端 令和2年2月23日

下記の分は、「叩く→痛い」「息を止める→苦しい」という単純なことではない。

自身の選択が、周囲に影響を及す結果の話であることを理解していただきたい。

 

私達は行動を選択する自由がある。

しかし、その行動の結果を選択する自由はない。

結果は自然の法則に支配されている。

結果は決定できない。

例えば、走ってくる車の前に飛び込むのを選択することはできるが、飛び込んだ後の結果は決められない。

それと同じように、悪事に手を染めるのを選択することはできる。

この場合、発覚するかどうかで社会的な結果は違ってくるだろうが、この道徳に背く選択が人格に及ぼす自然の結果はすでに決まっている。

私達の行動は原則(道徳)に支配されている。

原則(道徳)に沿って生きていれば、良い結果に繋がる。

原則(道徳)に反して生きていれば、悪い結果に繋がる。

私達はどんな状況においても自分の反応を選択できるが、反応を選択することで、その結果も選択しているのである。

棒の端を持ち上げれば、反対側の端も持ち上がる」のである。

誰でもそれぞれの人生の中で、後になって後悔するような棒を拾ったことがあるはずだ。

その選択は、経験したくなかった結果をもたらしたに違いない。

やり直せるものならば、別の選択をするだろう。

これは「過ち」と呼ばれているが、一方では深い気づきを与えてくれる。

過去の過ちを悔いてばかりいる人にとって、主体的であるために必要なのは、過去の過ちはどうにもならないことに気づくことだ。

過ぎてしまったことを呼び戻すことはできないし、やり直すこともできない。

また、生じた結果をコントロールすることなどできない。

主体的な行動とは、間違いや過ちをすぐに認めて正し、そこから教訓を学ぶ

だから失敗が成功に繋がる。「成功は失敗の彼方にある」

間違いや過ちを認めず、行動を正さず、そこから何も学ぼうとしなければ、失敗はまったく異なる様相を帯びてくる。

過ちをごまかし、正当化し、もっともらしい言い訳をして自分にも他者にも嘘をつくことになる。

一度目の過ちを取り繕うという二度目の過ちは、さらに、一度目の失敗を増幅させ、必要以上に重大なものになり、自分自身にさらに深い傷をおわせることになる。

私達を深く傷つけるのは他者の行動ではないし、自分の過ちでもない。

重要なのは、過ちを犯したときにどういう選択をするかである。

自分を咬んだ毒蛇を追いかけていたら、毒を体中に回してしまう。

すぐに毒を取り除くほうがよぼど大切なのだ

過ちをすぐに認めて正すことはとても大切なことであり、悪影響を残さず、より一層の力を得ることができるのである。

不正の棒を持ち上げますか?

時間を無駄にする棒を持ち上げますか?

まずは自分を大切にする棒を持ち上げませんか?その気持ちが反対の端にある幸せの道筋を示す「何か」に気づかせてくれます。絶対です。

その「何か」は皆違う。だけど大きく見れば同じ幸せの枠に収まります

その枠とは人を思いやる「道徳」です。

道徳に沿って棒を上げれば、良い結果に繋がりますが、その結果の選択はできません

どのような形で良いことが起こるか解らない。だから人生は面白いのです

部屋でテレビを見てコロコロしている場合ではないです。

「道徳」「品」「人格」

主体的の定義 令和2年2月14日

主体的であれ!

主体性とは、自発的に率先して行動することだけを意味するのではない。

人間として自分の人生の責任を引き受けることも意味する。

私たちの行動は、周りの状況ではなく、自分自身の決定と選択の結果である

私達人間は、感情を抑えて自らの価値観を優先させることができる。

人間は誰しも自発的にかつ責任をもって行動しているのである。

責任は英語でresponsibilityという。response=反応とability=能力という2つの言葉でできている。

主体性を持つ人は、自分の行動に責任を持ち、状況や条件づけのせいにしない

自分の行動は、状況から生まれる一時的な感情の結果ではなく、価値観に基づいた自分自身の結果であることを知っている。

人間は本来、主体的な存在である。

だから、人生が条件付けや状況に支配されているとしたら、それは意識的にせよ無意識にせよ、支配されることを自分で選択したからに他ならない。

そのような選択をすると、人は反応的reactiveになる。

反応的な人は、周りの物理的な環境に影響を受ける。

天気が良ければ、気分もよくなる。

ところが天気が悪いと気持ちがふさぎ、行動も鈍くなる。

主体的proactiveな人は自分の中に自分の天気を持っている。

雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。

自分の価値観に基づいて行動している。

質の高い仕事をするという価値観を持っていれば、天気がどうであろうと仕事に集中できるのだ。

反応的な人は、社会的な環境にも左右される。

彼らは「社会的な天気」も気になってしまう。

人にちやほやされると気分がいい。

そうでないと、殻を作って身構える。

反応的な人の精神状態は他者の出方次第でころころ変わるのである。

自分をコントロールする力を他者に与えてしまっているのだ

衝動を抑え、価値観に従って行動する能力こそが主体的な人の本質である。

反応的な人は、その時々の感情や状況、条件付け、自分を取り巻く環境に影響を受ける。

主体的な人は、深く考えて選択し、自分の内面にある価値観で自分をコントロールできるのである。

だからといって、主体的な人が、外から受ける物理的、社会的あるいは心理的な刺激に影響をうけないかというと、そんなことはない。

しかし、そうした刺激に対する反応は、意識的にせよ無意識にせよ、価値観に基づいたせんたくなのである。

ガンジーの言葉

「自分から投げ捨てさえしなければ、誰も私たちの自尊心を奪うことはできない」

私達は自分に起こったことで傷ついていると思っている。

しかし、実際には、その出来事を受け入れ、容認する選択をしたことによって傷ついているのだ。

もちろん、肉体的に傷ついたり、経済的な損害を被ったりして、つらい思いをすることもあるだろう。

しかしこの出来事が、私たちの人格、私たちの基礎をなすアイデンティティまでも傷つけるのを許してはいけない

むしろ、つらい経験によって人格を鍛え、内面の力を強くし、将来厳しい状況に直面してもしっかりと対応する自由を得られる。

これがそう簡単に納得できる考え方でないことは百も承知している。

特に私たちがこれまで何年にもわたって、自分の不幸を状況や他者の行動のせいにしてきたのであればなおさらのことだ。

しかし、深く正直に「今日の私があるのは、過去の選択の結果だ」と言えなければ、「私は他の道を選択する」と言うことはできないのだ。

いかなる状況にも、刺激と反応の間には選択の自由がある

何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択しているのだ

「道徳」「品」「人格」

お試し編 渋沢栄一 論語と算盤より

士魂商才 武士のような精神と、道徳を根底とする。

身の丈を守ることを知らないと、とんだ勘違いを引き起こすことがある。

進むときは進むが、止まった方がいいときは止まり、退くときは退く。

だいたいにおいて人の災いは得意なときに萌芽する。

得意なときに緩めず、失意の時に落胆せず、いつも同じ心構えで道理を守る心がけが大切。

御膳立てはするが、箸を口に運ぶ程世の中暇ではない。

何かやろうとする者は、自分で箸を取らなくてはダメなのだ。

千里の道も一歩から。まずは「天地の道理」物事の本質を「命」とすることだ。

些細なことを軽蔑することなく勤勉に、忠実に、誠意を込めて進むのだ。

人情の陥りがちな欠点は、成果を焦り、大局を見ることを忘れ、目先のわずかな成功に満足し、どうでもよいことに落胆する。

強い意志のうえに、聡明な知恵を持ち、これを情愛で調整する。この3つを大きく成長させてこそ、初めて「常識」となる。

習慣とは、普段からの振舞が積み重なって身に沁みついたもの。良い習慣を行うことは、人としても、体からしても、社会から見ても大切。

勤勉、努力、振舞の習慣が必要なのだ。怠けていて好結果が生まれることは決してない。

いつもは、健康に注意を払わず、いざ病気になると病院に慌てて駆けて、いつでも治してくれると思っている。そして医者に(普段から健康には気を付けてくださいね)と言われる。生活の中でも学ぶ姿勢を意識せよ。

相手の言葉に従うと、一時は利益を得られるが、後で不利益が起こってくる。この事柄に対しては、きっぱり処理すれば、目先は不利でも将来のためになる。

意志の鍛錬には常識が必要。良心と人を大切にする気持ちをもって、静かな気持ちで決断することだ。

まっとうに富と地位を手にせよ。まっとうでないならしがみつくな。富を先にして道義を後にすると、大切な精神の問題を忘れ、物の奴隷になる。まっとうな富は、正しい活動によって手に入れるべきものである。お金は、よく集めることを知って、よく使うことを知らないと、守銭奴になる。

一杯のご飯、紙切れや糸くずでも、これを作るのにいかに苦労を重ねてきたのか知らなければならない。

もし年老いてまだ寿命に恵まれていたとしても、ただ食べて、寝て、その日を送るだけの人生では、そこには生命など無く、肉の塊があるだけだ。

一方で年老いて体が満足に動かなくなっても、心だけは世の中の役に立とうとするなら、それは生命ある存在になる。

これは仕事に取り組む場合でも全く同じこと。

単に務めるだけではなく、そのことに対して興味を持たなければならない。

興味がなければ、心もなくなり、木彫りの人形と同じになってしまう。

「趣味の極致」を理解することは、愛好することの深さには及ばない。愛好することは、楽しむ境地の深さには及ばない。だから「楽しく」を誇張する。

真の人は、道徳と品を身に着け、知恵を磨き、世の中に貢献ができる生き物。

精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や兼職を磨き上げよう。武士道も大切だ。

正義  皆が認めた正しさ。

廉直「れんちょく」 心がきれいでまっすぐなこと。

義教 弱気を助ける心意気。

敢為「かんい」 困難に負けない意志。

礼譲 礼儀と譲り合い。

仁 物事を健やかに育む。

義 みんなの為を考える。

智 物事の内実を見通す。

信 信頼される。

(礼 知 仁、人は知識があっても礼儀が無ければダメなのだ!!)佐々木秀樹より。

仕事とは、地道に努力していけば精通していくものだが、気を緩めると荒れてしまう。

何事においてもこれは当てはまる。

もし、大いなる楽しみと喜びの気持ちをもって事業に携わっていくなら、いかに忙しく、いかにわずらわしくても、飽きてしまったり、いやになってしまうような苦痛を感じるはずもない。

反対に、まったく楽しさを感じず、いやいやながら仕事をすると、必ず退屈を感じるようになり、やがて不満を覚えて、最後には自分がその職を放り出す羽目になるのが、自然の勢いではないでしょうか。

前者では、精神が溌溂として愉快な気持ちから楽しみを発見し、さらに尽きない喜びを感じて人生、仕事を進める原動力となる。

後者だと、精神が縮こまり、鬱々として退屈から疲れを感じるようになり、やがてその身を滅ぼしてしまうことになる。

溌溂とした原動力を発揮するには、本当の意味での自立した人になろう。

人に頼ってばかりだと、自分の実力を著しく錆び付かせ、大切な「自信」が育たなくなる。

一流と呼ばれる人は、生まれた時からずっと一流なのではなく、一流になるべく自分の品性を磨いています。

「道徳」「品」「人格」
「道徳」「品」「人格」